猫の眼差しは口ほどに語る
出典: 2012.4.14
http://blog.livedoor.jp/koredakecinema/archives/5518211.html

アニメ版『銀河鉄道の夜』は、宮沢賢治の著名な原作をもとに、ますむらひろしが描いた漫画をベースに杉井ギサブローが監督した映画だ。

また、音楽を細野晴臣が担当し、実に可愛らしくも幻想的なBGMと、銀河の星空を想わせずにいられないテーマ曲が作品の完成度を一層高めている。

だが、この映画を最も効果的に傑作へと導いたのは、一部を除いて、主要なキャラクター達がますむらの漫画に基づいて、すべて猫の姿で描かれている点だろう。

これによって既に広く知れ渡っている宮沢の原作だが、映画は観客に新たな主人公達――人間の少年ではない、猫のジョバンニとカムパネルラとの出会いを可能にしている。

彼らの家族や級友ら、そして住んでいる町の全てのキャラクターも同様に猫の姿で登場し、銀河鉄道によって旅立つまでもなく、彼らの現実の世界そのものが既に国や時代を限定しない、ファンタジックな世界の様相を呈しているのだ。

そうすることで、ジョバンニとカムパネルラの住む町での出来事は、万人に通ずる普遍的なノスタルジーを醸し出すことに成功している。

父親がいないことで級友らに苛められたり、病弱な母親の代わりに家事に勤しむジョバンニの生活は、猫の姿をもって描写されているために、現代の行き過ぎたイジメ等を連想させることなく、必要最低限の悲しみのみが詩的に感じ取れるのだ。

ちなみに、ジョバンニの母親は声優の声だけで登場し、彼らの家の寝室で休んでいるらしき姿は映像では描かれていない。

さり気ない演出だが、ジョバンニの孤独感を大変上手く強調しており、アニメだからと言って侮るべき作品でないことが、こうした手法からも実感できる。

尚、この映画の海外向けタイトルは "Night on the Galactic Railroad" と称されることもあるが、それは飽くまでも原作の英題に過ぎない。

このアニメ映画版は日本語のタイトル以外には、Nokto de la Galaktia Fervojo というラテン文字表記のものしかなく、作中に登場する全ての文字は宮沢が強い興味を抱いていた国際語であるエスペラントで記されている。


さて、物語の粗筋について少し触れておこう。ジョバンニの暮らしぶりは前述した通りだが、町は夜に行われる星祭りというイベントを迎えようとしていた。


しかし、他の子供達が共に誘い合って祭りに行く中、ジョバンニは一人で丘に登り淋しさを噛みしめていた。そこへ夜空を走る不思議な汽車が出現し、気づくと彼は同じクラスのカムパネルラと向かい合って列車の中に座っていた。

原作ではカムパネルラはジョバンニの親友という設定らしい。だが、映画における彼らが通う学校でのシーンは冒頭に少しあるだけで、そこでの二人の様子を見る限りでは、どこか心が通じ合っているように見つめ合う場面はあっても、特に親しく話したり遊んだりする描写はない。

二人が果たしてどういった関係にあるかは観る側の想像力に任されている。目的地不明なまま、銀河を直走る列車での彼らは、そんなあり得ないシチュエーションに疑問を抱くよりも、星巡りの旅を純粋に楽しむ。

その途上で、彼らは様々な人物達と出会いながら…学説を証明するためにある星で化石発掘をしている学者、鷺を捕獲しては菓子へと変える商売をする鳥捕り、そして作中では唯一人間の姿で登場する幼い姉弟。

この姉と弟は他に大勢の乗客達と銀河鉄道に乗車して、ジョバンニとカムパネルラの隣に座しては、彼らの乗っていた船が氷山に追突して沈没したと語る。

明らかにかのタイタニック号の悲劇をモチーフにしている彼らの経緯は、観客に初めて銀河鉄道が死者があの世へと旅立つ際に乗る列車ではないかと予感させる。

姉弟を含む沈没船の乗客達は、十字架が燦々と輝く星でキリスト教の賛美歌が流れる中、次々と下車して行く。

彼らが去った後、列車内に残されたのはジョバンニとカムパネルラだけだった。不安を感じ始めたジョバンニは、いつまでも二人は一緒だとの約束をカムパネルラに確認するが、やがてカムパネルラは‘本当のお父さん’のもとへ行かねばならないとの謎の言葉を残しては姿を消してしまう。

カムパネルラを追おうとするジョバンニだったが、突然彼はもとの丘に戻されてしまっていた。

どうやら自分は眠り込んで夢を見ていたらしいと感じながら町中へと行くと、苛めっ子の級友が川に落ちたのを助けた後に、カムパネルラ自身は溺れて行方不明になっていることを聞かされ、ジョバンニは衝撃を受ける。

カムパネルラの父親から時間が経ち過ぎたので、もう彼が生きている見込みは無いだろうと聞き、ジョバンニは立ち去り際に、漁に出ている自分の父親からもうすぐ戻るという知らせを受けたことも彼から告げられる。

悲しい事実と嬉しい知らせを同時に聞かされたジョバンニは、家で待つ母のもとへと帰って行く。


このアニメ映画の際立った特徴は、摩訶不思議な冒険や悲劇的なラストに関わらず、キャラクター達が感情を露わにするシーンが極めて少ないことだ。

ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道で初めて目にする夢のような光景の数々に多少は歓喜することもあるが、現実に戻ってからカムパネルラの死を知らされたジョバンニも、カムパネルラの父親さえも泣き叫ぶような行動には出ない。

カムパネルラが銀河鉄道から下車するシークエンスでのみ、ジョバンニはそれ止めようと必死で彼の名前を叫びながら追うが、その部分だけが彼が必死な想いで感情を行動で表す場面だ。

このように、全篇通してキャラクター達が感情を押し殺しているかのような表現方法により、観る側はそれぞれのエピソードが何を意味しているかを考えながら鑑賞する余裕を与えられている。

機関車に乗っての宇宙旅行という突拍子もない物語に対して、説明的なナレーションはおろか、台詞が極端に少ないことも、観客が想像力を働かせながら観ることをさらに可能にしてもいる。
銀河を旅する中で、ジョバンニとカムパネルラが何を考えているかは、彼らを猫の姿に変えることによって、敢えて不明確にしているのだろう。


この作品を観終わって最も印象に残るのは、彼らの滅多に変わらぬ表情と、ずっと大きく見開いたままの瞳だ。本物の猫と同じように、彼らは自分達の感情を語らない。それでいながら、様々な想いが彼らの中に渦巻いているように感じさせる魔力があるのだ。

個人的には、この物語は童話的なアドベンチャーに満ちていながらも、真のテーマは自己犠牲の精神ではないかと思っている。

作中に登場するサソリの火という挿話が端的にそれを示しているからだ。イタチに狙われたサソリは、懸命に逃げた挙句に井戸に落ちてしまい、結局は溺れ死んでしまう。

その際に、サソリは自分もたくさんの虫を食べて生き長らえてきた事実を想起し、自分も悪あがきをせずに身を捧げれば、少なくともイタチがあと一日は生きることができたかもしれなかったと後悔する。

そして神に向かって、----どうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために----と願うのだ。

この話を語ったのは沈没船からきた姉弟の姉…彼女もまた、救命艇に乗る権利を他者に譲って命を落とした一人なのだ。彼女もサソリのように溺れ死に、カムパネルラもまた他者を救って溺れてしまった。彼らの行いこそが、宮沢賢治、ますむらひろし、そして杉井監督が描きたかった、‘幸’なのだろう。

‘幸’というキーワードは、何となくキリスト教を強く連想させる。だが、沈没船の乗客らと同様に、既に死者として銀河鉄道に乗っていたカムパネルラは、しかし十字架のある星では下車せず、自分の‘本当のお父さん’のもとへ行くと言い残して去って行く。

これは宮沢自身が熱心に法華経を信仰していたにも関わらず、キリスト教をはじめとして、それぞれの人間にはそれぞれの信仰があることを認めていたからではないかと思う。

カムパネルラに自己犠牲を‘幸’とする道徳観を与えた彼の‘本当のお父さん’は何者であるか分からないと同時に、何者であっても構わないのだ。それは観る人それぞれが、自分にとっての‘本当のお父さん’が何者であるかを考えさせるために登場する存在なのではないか。

尚、制作段階で登場人物の姿を猫に置き換えることに、宮沢の関係者からいくらか反発があったらしい。しかし、菜食主義者でもあり、おそらくは人間以外の全ての命をも愛しんでいた宮沢ならば、この映画の出来に満足したことと思う。言葉や表情で自己主張をし過ぎるジョバンニとカムパネルラは、この物語には相応しくない。黙しては眼差しのみで語り、彼らが何を思っているのかを想像させられずにはいられない猫という動物こそ、銀河を観客と共に旅する仲間として最適な存在だったのだろう。